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林芙美子先生に学ぶ、人間の働き方や生き方とは?

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林芙美子先生に学ぶ、人間の働き方や生き方とは?

愛らしき我が家

数寄屋造りで愛が溢れる邸宅は、職場でありながら、アトリエであり生活の場であったようです。
林芙美子先生は、ここで執筆活動をしながら生活もされ、自慢だった料理も家事も行い、生きてこられました。
この素晴らしい建築物に敬三郎は魅了されて、とっても多くのことを学ばさせていただき、感銘を受けたので記録したいと思います。

庶民の思いに寄り添った愛のある思考で作られた作品は、勇気づけたり未来を夢見たりと、苦しい時代にも庶民には評価の高い作品が多かったとあります。
1951年6月28日、亡くなる前まで執筆活動を続けた職場であり、邸宅から現代における働き方や生き方について、学ぶべきことはとても多かったです。

芙美子先生がこだわり抜いた建築物

見てください。このこだわった作りを。
庭といい、外観といい、素晴らしく整えられた美しさがここにはあります。
この地を選んだ時から、この小高くなった場所に建物を建てれば、どのように見えるか、街に映るかを考えた設計で、迎え入れるための四の坂を少し上がったところに玄関があります。
建物に入るまでにすでに演出があり、大谷石で出来た擁壁が高級さと安心感を与えてくれます。

庭の奥からみる邸宅の眺めは最高で、自分から見た庭とその先にある建物がひとつの絵のようになっていて、
その中には自然と、人間が作り出した自然と建物があるのですが、なんとも美しくここが生活の場所でもあったことが想像しづらいほどに美しさを感じてしまいます。

これからこの建物に入るんだぞという、わくわくした気分にさえしてくれる四の坂。
この小さい丘を上がる途中に邸宅はあり、そこへ行くまでの街との融合も建築物と一体となって空気さえも変えてくれ、これから何かが始まるんじゃないであろうかという期待を落合という場所が演出してくれている。
建築家:山口文象氏の設計

生活棟とアトリエ棟

建物は、建坪の関係もあって一つではなく、生活を中心に行う「生活棟」と執筆活動と、夫であり画家のアトリエとして作られた「アトリエ棟」からなっています。
言葉の通り、生活棟には台所や浴室、便所などがあり生活を行う場所として使われていたようですが、芙美子先生は料理がとっても得意だったようで客人が来られた際などは、
すっと姿がなくなったと思えば、客人がうなるほどの酒の肴を短時間で作られていたようです。

現在では、在宅ワークやテレワーク、自宅で働くことを許可して働き方改革と話題になっていますが、芙美子先生はすでにそれを実践されていて、
その素晴らしい環境からよい作品が生まれていたのかもしれません。
どこか別の場所や会社に向かうのではなく、生活の場と仕事を行う場所が一緒であったとしても、時間や空間の使い方が優れていて、そこに求める感性を大事にされていたのかもしれません。
その分け隔てを、この建築物が空間と気流で程よく遮断し、そのバランスを丁度よいものに保っていたように感じてなりません。

ワークライフバランスとか、仕事とプライベートとか、切り分けて考えることが当たりまえの現代ですが、芙美子先生は小説書きとして、生活も生き様も共に時間と歩んでいたのでしょう。

一番力を入れたのが台所と浴室、そして厠

芙美子先生がとってもこだわったのが人造石研ぎ出しで作られた流し台と総檜の浴槽がある風呂場。
家事が好きだった芙美子先生。
仕事の間に家事をこなし、漬物を漬けたりとされていたようです。
芙美子先生は背が高くないために、この流し台も低めに作られており、流し台だけでなく床面まで人造石で作られている美しさは、機能性とデザイン共に素晴らしいと感じることができます。

こじんまりとした台所から伝わってくる美しさや、おいしいそうに感じる雰囲気は、今まさに料理を出してもらえるんじゃないかと錯覚するほどに、
料理をする喜びを味合わせてくれた空間だったのでしょう。
料理が好きな方だとよくわかるかもしれませんが、良いフライパンや使い勝手のいいシステムキッチンなどがあれば、楽しい、うれしいと感じる、あの感覚です。
それが、70年以上たった今も伝わってくるのですから、当時この台所は芙美子先生にとって、家事を任せられた場所ではなくて、楽しい家事を、料理を行う場所、だったのかもしれません。


芙美子先生がこの家で自慢するところに浴室も挙げられます。
総檜で作られた湯舟と、入りやすさを考慮した落とし込みの作りである。湯舟が床面を掘り下げて埋め込まれている作りであり、背の低かった芙美子先生が跨ぎやすく、子が入浴しやすいことを考慮したものであったようです。
この和風建築の中で特徴と感じたのは、アトリエ棟と生活棟が別々に建てられているのだが、その境目に台所、浴室が配置されていて和風建築で一番の大敵である水回りを別棟にすることなく、
かつ、風が通り抜けるこの建築物の中心ともいえる場所に配置していることがとても斬新であり機能性を感じた。


それでいて、生活棟との距離は一体で、浴室からすぐに生活の場へと移動することが出来るようになっており、人の気配を感じながら入浴できたであろうと推測する。その「距離」が建築物から感じ取ることが出来、設計の中に動きや生活空間のイメージが盛り込まれていたことを感じさせる。

生活する場所の作りを一番大事に造っていた

これだけ水回りに力をいれてお金を十二分にかけて造っているだけあり、厠も豪華である。
見えないところにも贅沢が盛り込まれてあり、当時では珍しい水洗式のトイレで自家用の浄化槽も整備されていた。

客間には金を書けなくてよい、茶の間と風呂と台所と厠には十二分にお金をかけてほしいと、芙美子先生の家への思いがしっかりと反映された象徴する場所である。

芙美子先生が一番大事にしたかったものがここにはあり、それがまさに家族が生活をする場所であって、快適性をとても重要視していたことがわかってきます。
そのことから、芙美子先生が生きる上で何を大切にしていきたかったのかを、この建物から感じることが出来ます。

玄関に入ってまず驚かせるのが取次の間です。
ここから右手の襖を開けると客間があるのですが、一番日当たりが悪く記者たちはここで待たされたようです。
この取次の間には、とても重要な意味があります。それは家族との私的な空間を客人や仕事と切り分けるために玄関奥には、友人などが直接小間に上がれるよう、小さな靴脱ぎが用意され、同じ場所でありながら相手と内容によって利用方法を変えて取次が出来ていた、素晴らしい作りになっています。

この小間は、芙美子先生の母であるキクさんが使われていたそうですが、時には男性の書生の寝室となったり、客人を分ける必要があるときなどには客間として使用していたようです。
この小間の特徴的な部分として、抜群のデザイン性が見受けられる作りが「越屋根」です。

この越屋根は、単にかっこいいからというだけで作られているのではなく重要な役割があります。
本来であれば、囲炉裏やかまどなどで出た煙などを外に逃がすために作られることが多いのですが、芙美子先生が大事にしたこととして「風が通り抜ける家」というコンセプトにあるように、この越屋根があることで空気の揺らぎや僅かな気流をも大事にしたかったのだと敬三郎は考えました。
特に作る必要性はないであろうと。
これだけ開放的に作られているにも関わらず、さらに越屋根を設けるという発想は、芙美子先生自身が、家を建てるにあたって200冊以上の本を読み、実際に京都などにも出かけて建築物をみて、材木も調べ上げたからこそ、生まれたものだと思いました。

この越屋根が明かりや空気を動かし、よどみをなくした、「なんて居心地がいいんだろう」と感じさせている物理的な役割を果たしていることに、驚かずにはいられないです。

完成度の高いものは美しい

敬三郎は、この言葉が好きなのですが、まさに機能面、デザイン面でも素晴らしい役割を果たしていると感じ、とても「美しい」と感じ、それを見た僕自身に喜びと感動を与えてくれました。

生活の中心となった茶の間

現代ではあまり耳にすることもなくなった茶の間という言葉。
一家が集まり団らんする場所であり、空間と時間を共有するとても大切な場所。
その茶の間を生活棟の一番よい場所に配置し、装飾のデティールも素晴らしいのですが、ここには用の美があります。
芙美子先生が作ったご飯をここでみんなで食べるということは、どれだけ心が満足させられたことでしょう。
建築物としての美しさと、家族を愛し、その愛をしっかりと建物に反映させているからこそ伝わってくるものが茶の間にもありました。

空間と時間、明かり、空気、そして家族と仕事。生きるということ。
頭を何かで殴られたように、痛烈に建物がそのことを考えなさいと言わんばかりに僕の脳には衝撃を受けた。

芙美子先生が亡くなる4日前にラジオの番組で取材を受けて話していた言葉が印象に残っている。

芙美子先生が生きた時代に、女性という立場で社会に出ることがどれほど厳しかっただろうか。
その大変さは容易に想像することが出来る。
しかし、芙美子先生が語っている記録から見れば、そうでないことがわかり、彼女が後世に伝えていきたい思いすら感じられる。

女学生とのやり取り(亡くなる4日前)

女学生
先生は、女性ですけども女性でお仕事をされているのは大変ではないですか?

それはね、私たちの時代にはあったかもしれないが、わたしは今、家庭を持っておりまして
子供もいますし、25年結婚しているんですよ。

もう銀婚式がはじまるんですけど、わたしが家庭を持っていて自分が仕事をしていくうえには、つらくもありましたけど体が貧乏に鍛えられているものですから、
その点はびくともしない
これで台所もしますし、配給も取りに行きましたし、リュックしょって疎開もしたり
非常にそれでファイトも感じる
小さいとき、貧乏しているときに非常についらいことがあると
「もっと殴ってくれ」という気持ちだった。神様に「もっといじめてください」
家庭をもって自分が小説なんか書いて仕事していると、もっともっと自分は努力しなくちゃいけない
非常につらくて、はばかり(トイレ)なんか入るとわーっと泣くときなんかあるが
それを耐えていく

女だから、男だからというハンディキャップは、家庭の面では克服しているつもりだし
「いい作品さえ書けたら」という希望ばかりです

女学生
先生は、これからどのように生きていきたいと思われますか?

「これからどういう生き方をしたらいいだろう?」と考えるが男と女を比べると
男の人は年をとると「悪じいさん」なんて言葉は聞かないんですけどね
おばあさんは年をとると、よく物語なんかに「悪ばばあ」なんて言われるでしょ

それはどういう違いだろう?

私たち家庭を持ったり家庭の中で朝から晩まで、がっさがっさ所帯をきりもりしていかなくちゃならない
だんなさんは、どんな最低生活で暮らしているだんなさんでも外の生活が相当にぎやかに
周囲にあるわけでしょ
そうすると行き着く平行線がだんだん末広がりになって、だから今のあなたたちの若い時にうんと本を読んだり

絵を見たり音楽を聞いたりうんと苔の水を吸うように、吸収した若さ時代を作っておくことが大事じゃないかと思います。

生きるとは?

芙美子先生が生きた時代にも、今と同じ女性の社会進出の問題や、働き方の考え方はたくさんあって、今よりももっと厳しい時代であったにも関わらず、自身の研鑽を学生たちに伝え、わかるように教えている姿は、この建物からも伝わってくる芙美子先生の生き方なのでしょう。
夫である手塚緑敏氏とは内縁の結婚であったし、息子である泰さんは新生児でもらい受けた養子であった。なぜ、内縁関係だけだったのか、とても考えさせられます。
画家である夫、緑敏のために作ったアトリエの北側には、明かりを取るための天窓が設けられていて、仲睦まじい様子がここからも感じ取ることが出来ます。

働き方や仕事ということについて、色んな考えや提案があるでしょうし、過去にも人間は同じような考えも問題もあったことでしょう。

でも、敬三郎はいつも大事に考えたいこととして、「自分がどう生きるか?」ということがあり、芙美子先生は改めてそれを、言葉からも建物からも教えてくださったように感じました。

東西南北風が吹き抜ける家

それは現実として機能美を果たしつつも、用の美をしっかりと持ち、真の意味での風が吹き抜ける家でした。
若いころに建築を好きになり、空気というものを上手に扱いたい、そんな夢を持っている僕には、建築物としても生き方としても素晴らしいとしか言いようのない時間でした。
もっとこの場所に居たい、もっとこの建物のことを知りたい、生きることを感じてみたい、
そう思える場所なので、みなさんもネットで調べるだけじゃなく、ぜひ、直接行って見てきて、感じてきて欲しいです。

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